ブックタイトル鉱山2019年7月号

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概要

鉱山2019年7月号

開坑から閉山まで一貫して住友社が経営した,日本はもとより世界でも例のない銅山であるため,当記念館では,普通なら散逸していてもおかしくない数々の貴重な史料や展示物を見ることができた。銅品位は,閉山されるまでの平均で約2.5%,1892(明治25)年以前では平均で約11%あったと伺い,非常に高い銅品位を誇っていたことに驚くとともに,日本経済を支えた世界有数の銅鉱山であったことを感じ取ることができた。屋外には,銅山稼働時に鉱山鉄道を走った別子一号蒸気機関車等も展示されていた。3.日暮別邸記念館日暮別邸記念館は,別子銅山において採掘された銅鉱石を製錬する際に排出される亜硫酸ガ別子一号蒸気機関車スの煙害克服の歴史を伝えるため,住友グループによって2018(平成30)年に建設された。「日暮別邸」は,1906(明治39)年に当時の住友家の別邸として建設された。元々,お客様の接待用に使われた木造2階建ての建築物であり,その名前は四阪島製錬所の設計を行った技師が,日が暮れるまでそこで構想を練っていたことに由来するそうである。しかしながら,建築後110年余りの歳月を経て老朽化が進み,価値ある建築物を島で保存し続けることが難しくなってきたことから,四阪島を遠望できる新居浜市中心部に昨年移築された。別子銅山は,明治に入り機械設備の導入,索道,鉄道の敷設などによって出鉱量の拡大が図られた。これに対応する製錬能力を確保するため,別子銅山の中にあった製錬所が新居浜の沿岸部に移転された。新居浜製錬所は,1883(明治16)年に建設され,翌年からの試験操業を経て,1893(明治26)年から本格的な生産が始まった。しかし,新居浜製錬所への移転により,亜硫酸ガスが周辺地域の農作物に被害を及ぼすという,予期せぬ事態が発生した。当時は亜硫酸ガスの回収方法が確立されておらず,技術的に解決することは極めて困難だったため,製錬所は1905(明治38)年に無人島の四阪島へ再移転された。四阪島は新居浜から北に約20km離れた無人島で,ここに製錬所を移転集合写真別子銅山記念館にて日暮別邸記念館外観-9-鉱山第777号2019年7月